気が付けば選ぶもの全てマイノリティ。
50代。国内の有名大学出身ではない、子なしで、配偶者はフリーランス、住まいは賃貸、近眼で、緑内障。好きな色は青系。
挙げるときりがないが、気が付くといつも、マイノリティだ。私はなんだか居心地が良いと感じる場所に出会えたことがあまりない人生だった。
「出会えたことがあまりない」ということで、全くではないのが若干めんどくさい。良いと思っていた場所もジワジワ居づらくなる。そのジワジワと居づらさを感じると、その場を立ち去ってしまう。そのせいで友達も少ない。
吐き出そう、私の何がこんな自分にしたのか…。
子供の頃に身体が弱いと、もうすでにマイノリティ。
すべての体調不良を喘息が呼びよせる。
3歳の頃、小児喘息と診断されたと母に聞いた。物心がついた頃には、季節の変わり目が来るたび、呼吸が苦しくなり、発作で寝込む。幼稚園にも、小学校にも行けない日が続く。
呼吸が浅く、アトピー性皮膚炎のせいで関節はカサカサ。粉をふくような乾燥と痒み。
小学2年生にはアレルギー性鼻炎を併発。話すと鼻声が常態。鼻声をからかわれるのも、精神的には受け流せなくなっていた。
病気は幾重にも幾重にも重なって、常に体調不良だった。
昭和は子供の人数が多かったのに、ここまで虚弱な子は学年でも珍しかった。アレルギーに対する理解も乏しく、喘息と風邪の違いすら、分かってもらえない。常に引け目を感じていた。
先生や近所の大人は「健康なのは心が弱いからだ」という時代。
私の小学生だった頃、
昭和50年代は、ぎりぎり戦争を経験した先生も居た時代、「身体が弱いのは心が弱いからだ」と遠慮なく言われた。
健康ではないことは、昭和は「ダメな子」だったのだ。
ひさびさに登校するから授業に付いていけない。ひさびさに身体を動かすから体育の授業で上手く走ることもできない。ひさびさに登校した日は、家ではぐったりしてテレビの前でボーっとして何もできなかった。
何らかの挽回するタイミングが無いまま、喘息の吸入器を片手に、アトピーの薬を塗る日々だった。
しばらく学校に行かないというのは、全てにおいて引け目を感じる立場になった。
しばらく学校に行かない。
それだけで、何もかもに後れを取る。
例えば、小学校の運動会。
練習や準備などが続くと疲労がたまり、あっというまに喘息の発作で学校を1週間ほど休むことが多かった。運動会当日はプログラムの段取りがわからず、足を引っ張ることばかりだ。クラスメイトに迷惑をかけたことで、その後のクラスでのキャラが付いてしまったと思う。
まずは勉強についていけない
→頭が弱い。
最新の学校やクラスの情報を知らない
→すでに仲間がいない。
健康でない
→学校の先生や大人には「身体が弱いダメな子」と言われる。
好きなものを好きと言えない子ども。
この状況を人生最初の10年で味わうと、自分自身に自信がない人生の始まりでもあった。
そして、自分の中に太い精神的な骨子がないため、好きなものも言えない。例えば水色が好きでも、女の子だからピンクを選ぶ中には入れない。
困ったことに好きなことやら興味があることが、少数なのも困る。ダブルパンチだ。
学校での立場の無さ、自分の心理的な骨子もなく、好きなものは少数派、マイノリティでしかない。心の中に薄暗い闇をもって幼少期を過ごしていたと思う。
吐き出そう、私の何がこんな自分にしたのか中学とか高校はどうだったか…。(つづく)