気付けば、人生ずっとマイノリティ(中学生のころ)

タイトルヘッダー:気付けば、人生ずっとマイノリティ(中学生のころ) おばさんのボヤキ
いつもマイノリティだった。

挙げるときりがないが、気が付くといつも、マイノリティだ。私はなんだか居心地が良いと感じる場所に出会えたことがあまりない人生だった。そして逃げてきた。

「出会えたことがあまりない」ということで、全くではないのが若干めんどくさい話で。良いと思っていた場所もジワジワ居づらくなる。そのジワジワと居づらさを感じると、その場を立ち去ってしまう。そのせいで友達も少ない。

吐き出そう、私の何がこんな自分にしたのか…。

80年代、不良じゃないのにおバカな生徒だった私。これまたマイノリティだった。

中間テストなどの順位発表で、後ろのほうになるとツッパリ生徒(今でいうところのヤンキー)が多く、フツーの生徒では私だけだった。マイノリティだった。先生に不思議がられるほどだった。

勉強すればできる!ということではなく、幼少期から喘息や肺炎で身体が弱く学校に通えない時期があったため、壊滅的な学力だったのだ。

「地頭が良い」というが、それは小学校までの学力の基盤がないと「地頭」というのができたいないということを、私は体得している。

絶対に部活に入るという風潮

中学生になってからも、失敗は多かった。思い出すとめまいが止まらない。
自分のことをよく「考え」て、どうしたら良いのか「決める」ことができていなかった。というか流されていた。

幼少期に喘息と肺炎を繰り返していた私は、中学校になったころには少し身体も健康になり、いろいろな事に興味を持つようになった。少しだけ希望に満ちていたはずの私だったが…。

なぜか昭和50年代~60年代(1980年代)の北関東の公立の中学校は風習で、部活に入ることがお決まりになっていた。

部活に所属することなり、当時流行っていたバレーボールの影響もあり幼なじみと盛り上がっていたこともあって、柄にもなくバレーボール部に入る。今のようなVリーグではなく実業団の時代で、女子は日立、男子はフジカラーが強かった。

別に強豪校ではないが、練習はきつく、12〜3歳でなぜか軍隊のような上下関係を学ぶ。そもそも体力がないので部活の練習後、自宅では死んだようにテレビの前で寝ていた。

今思うと不思議だが、帰宅部という選択が、周りに無かったのだ。

部活に所属しないということは、=(イコール)いわゆる不良でツッパリ(今でいうところのヤンキー)ということとされた。

家庭の事情や身体の不調などの問題を抱える生徒だけではなく、単純に興味がなかった生徒もいたと思うが。部活の所属は絶対だった。それしか選びがなかったように思う。

そういう傾向が強かった・風潮だっただけで、自身の健康面や家庭環境によっては、部活に入らなくても問題はなかったはずだ。

こーゆー「考える」という心理的成長を私は欠いていたように思う。もちろん周りの大人も選び考えるチャンスを与えていない時代だった。「言うことをきけ!」という時代だった。

帰宅後は、練習と先輩に気を使った疲れがピークになり、気絶するように居間で寝ていた。

ぼんやりと目を覚ますとテレビでは「夜のヒットスタジオ」が流れ、中森明菜が歌っていた。「明菜、かっけーなぁ」目をこすりながら麦茶を飲む。時計を見上げるとため息だった。
宿題すらする時間もないまま、一日を終わらせてしまった。

勉強にますます遅れた。

80年代、北関東はまだまだツッパリ文化がすごく、平成になってもヤンキーが多い県とテレビで取り上げられるほどになってしまったが。

どうらやら私の学年が入学する数年前まで、私の通った中学校は地域で話題になるほど荒れていたようだ。

世代によっては理解してもらると思うが、懐かしいドラマ「金八先生」(第2シーズンあたり)の荒れているアレだ。中学生なのにバイクに乗り、中学生なのにタバコやら、繁華街では万引きなどなど、ただの犯罪者だが(笑)。

がしかし、実際に私たちの学年は治まって来ていたように思う。私の学年ではクラスに1〜2名くらいで、服装がヤンキーなぐらいで、本格的な不良行為はしていない連中だった。

荒れた中学校を立て直した先生たちが、自信をまとって腕をフルスイングするような意気込みで、生徒に「文武両道だ!」という景色は、圧力が強かったと思う。いまだに苦い思い出だ。
帰宅部になる場合は、圧倒的に学力が良い生徒だけだったように思う。

そして部活をやめることも良しとされない風潮だった。

学年に何人か居たが、部活を辞めると先輩に呼び出され、先生には職員室に呼び出されて長時間の説得とされ、「いかにダメ人間」かをさとされる。

でも、たいていは、退部しようとした生徒たちは真面目な生徒だったと思う。

その頃の私は、部活で体力を消耗→勉強までたどり着けずの毎日。

話を戻すが、体力が無いのに、部活で生活が追われて精一杯だった。「いっぱい、いっぱい」とはこのことだった。

何度も繰り返し思う。あの頃の10代の私は、幼少期からやっと少し元気になっただけだ。よ~く!自分の体力を考えると、私は「帰宅部」となり、勉強の遅れを取り戻すことに専念するべきだった。

バレーボール部内の女子の人間関係、先輩の上下関係のヤバさ、キツイ練習。土日も学校に行く。そうなのだ休みは夏休みお盆とお正月以外は練習だった。べつに強豪校でもないのに。

結果、家ではストレスで食べて、寝るだけだった。気が付いたら「ぽっちゃり人生」も始まってしまっていた。ありゃりゃ…。

そう!見た目をからかう時代。
女子の中には目ざとく「太ったよねぇ~」と声をかける。
男子には「オイ、デブ」とからかう。(そういう、その男子は背が小さいか、それなりのブス男子だった(笑))。

それは、同じ学年の中でも少し知恵を付けた、多少の優越感を感じたい欲のある、もしくは上目線でのちょっとした「軽口」だったと思うが。


発言する彼らの、ほんの少し心の奥にある「マウント魂」は、当時の私の自信喪失に背中を押すどころか、完全にドロップキックだった。

だって、勉強はできないは、デブだは、救いようもない状況にいることは自分でも分かっていた。

そうだこの時期だ。精神のドロ沼にズブズブと落ちて行った。もうこれは最下層の人種だなと思ってしまった。この先、自分がどうなるのかなぁと、ぼんやり天井をみてボーっとていた日を思い出す。

ブスでも勉強ができればまだいいが、その道も、気が付けば絶っていた。

中学3年のモヤモヤからの登校拒否。

いろいろな引け目を感じやすく、クラスの子がどんな風に私を見て感じているのか、気にするようになっていた。

いや、今思うと私だけではないなぁ。女子は多感アクセルが全開になる時期だったと思う。全員そうだった。嫌われないか、からかわれないか、クラスの立ち位置に敏感だったと思う。

クラス替えのせいで、中2のクラスメイトで波長のあう友達と離れた。これが痛かったぁ。

新しいクラスに馴染めないというか、苦手な子ばかりだったのが、すべての闇の始まりだった。

同じバレーボール部でも苦手な子、人を引き合いに出してはからかう子、はっきり好き嫌いを言えて優位に立つ気が強い子、単純にお金持ちの子でバックグラウンドが強いから全部強い子…。

別のクラスになってしまった仲良しの女子に、
「あのクラスって、何ていうか強いというか変な人がそろったね。」と言われ、確信した、この雰囲気は私だけが感じていたわけではないようだった。

人の嫌なことをやってしまうナチュラルボーン「性悪説」タイプの人が多かったぁ。

不思議だ。あの手の「人」が集まったのだ。あの3年3組に。むしろツッパリ生徒よりたちが悪かったと思う。

今思うと、あの調子に乗って人をからかい、小バカにする子って、なんなんだろうか。
笑いにするのとは違い、なにか毒々しいスパイスがちりばめれた感じ。すぐに揚げ足をとる。しかも自然にそれをやってしまう。

大人になった今は、そういう人にだって家庭環境やら、成長時期でホルモンバランスがどうのこうのって理論的に自分の中で、道徳的な脳内処理をしているが、

いやぁ、無理だ。あんな奴らでも社会に出ているんかと思うだけで、キツイなぁ。

生まれながらの「性悪説」タイプの人がいるということを、本当に私は中学3年で学んだと思う。

ナチュラルボーン「性悪説」タイプの生徒が、おとなしい生徒を標的にするのがイヤだった。

私自身が標的になったことはあまりなく(少しあったが)イジメまでは満たない、しかしながら誰かをからかい、ドロっとしたクラスの景色が嫌になっていた。

クラスに友達ができないことも分かっていた私は、大人しくデヘデヘしながら下手に出ながら、なんとか学校で立ち振る舞っていたが…。

誰かを標的にする様子を見ているのが本当に耐えられなかった。そもそも、友達もできず、そんな私が学校へ行かなくなるのは自然なことだったし、それしか方法がなかった。

が、しかし、私は強烈なイジメにあったわけではない、だからややこしい。被害にあっていないのに学校に行かなくるという私は、先生たちには変わって見えたようだ。

受験期に入り中3の2学期に部活は引退となり部活でクタクタだった後、開放された時期でもあった。

身体が弱いのに身体をフルスロットルで使い、気を張った2年間の疲れがどっと押し寄せた。解放からの放心状態だ。いろいろな疲れと嫌気がピークだったのだろうと思う。

部活で疲れた2年間に、クラスの人間関係が私の背中を飛び蹴りしてきたようだった。

フツーの子が「登校拒否」するという経験が少ない時代。これまたマイノリティだった。

地味な真面目そうな生徒が、学校に来ないということが、先生には不思議だったようだ。むしろ不良やツッパリの悪い子たちは学校に来るが。

先生は、親が甘いとか、その生徒に根性が無いとか、まぁ、簡単な精神論を言ってきましたよ。

「いったい何がイヤなんだ?」と家にまで来て、さも声掛けをしに家にきている感を出す、当時の担任は女性の体育教師。

(おまえは金八先生きどりか、と心の中で言っていた私。)
いまでも吐き気がするし、戦意喪失だ。ますます生きる気力がなくなっていた。

戦争の混とん期に生き抜いた両親は中卒だったため、先生に頭が上がらない様子をみて、(それを見るだけでも悲しくて)仕方なく学校へ復帰した

学校に復帰したのは12月だった

あれ?!受験できる学校が無いかもしれないという現実。

いまの制度は知らないが、あまりに出席が足りず義務教育とはいえ、あと数日で公立高校の受験も難しくなるほどだったらしい。いや、親が先生におどされたのかもしれないが。

地方は、頭が良いのが公立で、滑り止めでおバカさんが行くのは私立高校だった。

私は公立高校をあきらめた。ほんとーに、学力が無かった。
学校に行っているだけで授業を聞いているだけでも、少しは違いがあったと思うが、しかし、本当にもう遅かった。

ツッパリがあつまる頭の悪い私立高校に行くしかなかった。雑誌の「mc sisiter」を読む私は、別にツッパリ文化に興味もない。むしろダサいと思っていた。

そう、高校でもマイノリティという大きな闇が大波となって待っていた。


私の何がこんな自分にしたのか吐き出そうと決めたけど、、高校のころの黒歴史はさらに重いなぁ…。(つづく)

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