50代。国内の有名大学出身ではない、子なしで、配偶者はフリーランス、住まいは賃貸、近眼で、緑内障。好きな色は青系…。
挙げるときりがないが、気が付くといつも、マイノリティだ。私はなんだか居心地が良いと感じる場所に出会えたことがあまりない人生だった。そして逃げてきた。
「出会えたことがあまりない」ということで、全くではないのが若干めんどくさい話で。良いと思っていた場所もジワジワ居づらくなる。そのジワジワと居づらさを感じると、その場を立ち去ってしまう。そのせいで友達も少ない。
吐き出そう、私の何がこんな自分にしたのか…。
80年代後半、北関東の10代はツッパリ文化が主流。
映画『ビー・バップ・ハイスクール』が大ヒットし、美少女アイドル、ミポリン(中山美穂)が歌う、ストーリーとは真逆のふんわりソフトな主題歌が、繁華街のスピーカーから漏れ溢れていた。
都心育ちの同世代に話を聞くと、この頃にはもうツッパリ文化なんて下火で完全に過去だったようだ。でも、私の生まれ育った北関東ではまだまだで、むしろ真っ盛りだった。
私といえば、ツッパリ(今でいうヤンキー)が苦手で、雑誌の「mc sisiter」や「オリーブ」を読んでは、DCブランドをお金がないのでウィンドーショッピングしていた。
地元のツッパリ風の彼らを見ては、なんというか、同じ時代を生きているはずなのに別の世界の人たちのように感じていた。あの格好…本当に「おしゃれ」だと思っているのかな?なんて、心の中でそっとつぶやいていた。
なぜか?!私が特進クラスに入るというおバカ学校。
幼少期に喘息やら肺炎をくり返し、アトピー性皮膚炎やら鼻炎やら、病気を繰り返し小学校から中学校へとつづき、幼少期から中学で不健康のフルコースを食らってしまった。
地頭どころが、まったく授業には着いて行けず、成績はツッパリ生徒と変わらなかった。
地味なおとなしい生徒が、ツッパリ、不良レベルの学力だった。
これは先生も困っただろうと、今なら分かる。分かりづらいマイノリティタイプだったと思う。
さらに追い打ちをかけたのは、中学3年生の時のクラスに馴染めず(語ると長くなる)、登校拒否となり、気が付けば入学できそうな高校が皆無だった。
当時の北関東では(他県はどんなふうだったのだろうか)、県立高校が優秀で、私立はレベルが低かった。
私がなんとか入試で合格したのは、私立のなかでも壊滅的おバカで、情けないほどのツッパリ生徒の多い、元男子校。私が入学する数年前に共学になったという私立高校だった。
入学当日に、クラスが発表され掲示板をみると、私が特進クラスになっていた。ただの普通科に入ったつもりが、「え、どいういうこと?」
元男子校が、団塊ジュニアの子供の多い時代に拡大しようと共学にしていた高校なので女子は、まだまだ少なかったが、特進クラスは女子が3人だけという。
他の普通科もまだまだ男子が多く、半数女子生徒がいる「共学クラス」というものにわけられていたはず。「あれ?」入学式で、どうなるんだという、ぼんやりとした不安にかられた。
とはいえ中学3年のクラスに馴染めずにいた私は、、それでも「あのクラス」から離れられたことで、少しだけリフレッシュしたと思っていたが…。
その後、高校卒業までに、「こじらせ」はさらにスパイシーになり香ばしくなってしまった。
そもそも男子が多い学校に行くべきではなかった。
先に言いたいのは、人格というか、自分の中の自信というか「私はこれでいい」というか、「人は人、自分は自分」的な、骨格ができるまで人はマイノリティになることはお勧めできない。
身体もこれから大人になるという時期、身体の変化は、男子には敏感に受け取られた。太れば胸も大きくなり、吹き出物があれば「汚い」「気持ち悪い」とからかわれる。
これが応えた。
特に学力もなく、家も裕福でもなく、ぽっちゃりで見た目にも良くない私は、自尊心などもなく、生きているだけで傷ついていたと思う。
これが社会の縮図なのだ。ただ、そのことを知らない私は、ただの「劣勢」だったのだ。そして拗らせてしまった。ただ人数が少ないだけなのだ、それで良いのに。
ツッパリ更生施設のような学校。
学校はツッパリを制圧して、暴力的に指導する校風だった。そして男子多めの学校。
「俺は優しいんだ…。」といって、剣道の竹刀(しない)で生徒を叩く先生がいた、ひどかったぁ。登場当時のベジータだ。ちなみに竹刀には必要のない数学の教師だが。
校則はダサいものが多く、白いマフラーは禁止。どうやら、すでに時代遅れだった横浜銀蝿の影響らしい(横浜銀蝿から10年ちかく経っていたが)。もちろん制服の改造はできない(なぜ、あんなふうに改造するのか不思議だが)。女性はスカートの長さも決まっていた。
ツッパリ生徒たちもたちが悪く、タバコを吸っては殴られて、成績が悪くて殴られて、授業をサボって留年しては殴られて、
ツッパリ生徒の話題は、地元の先輩や、暴走族の頭(リーダー)と知り合いだとかなんとか、工藤静香みたいなキャバ嬢とあれしたこれしたとか。
万引きをして警察に捕まった生徒は坊主になるので分かりやすかった。
親はもちろん、先生も警察に行って頭を下げていたらしいので、今思うと実は生徒のことを考えていたのかもしれない。
荒れていた。
理解できないツッパリ生徒の価値観(私はダサいと思っていたし)、先生はツッパリ生徒でもない私にすら威圧するし、そして自宅から遠い通学。私はストレスで食べて太った。帰宅すると、すぐに居間でテレビを見ながら、すぐに寝てしまった。
ストレスだったのだと思う。家に帰ってくると、もう動けなかった。夕方のニュースで幸田シャーミンさんをぼんやりと見ていた。
「ブス」と言えば上に立つことができると知っている昭和の男子。
ツッパリ男子は、簡単に見た目で女子を差別した。
「ブス」だの「デブ」だの当たり前だった。「あの女よりマシだけど、おぇぇー、やりたくねーよな」とバスで下校する時に言われたことがある。
(そんな奴らは、地元でそうそうに結婚して子供をもうけ、いい感じでやっていると思うと、不幸になって欲しいと祈るばかりだが。)
男子が多く、ツッパリ文化の中、腕力も弱く、背も低く、将来性のない頭の悪い男子が溢れていたからだろうか、さらに弱くツッパリでもない私には牙を向けられた。弱い奴はさらに弱い奴に強くあたる。
私と言えば、真に受けてしまった。
ツッパリ文化はダサいと思う反面、こんなブスはどしたらいいのかなぁ、気持ち悪いと言われるし、ただただ下を向いて生きて行くだけだった。
女子の友達ができなかったのも辛かったぁ。
ツッパリのおバカなこの高校には、もちろんモンスター級のおバカなツッパリの女子が入学して来るのだ。ツッパリ女子たちの、調子に乗ってはおバカで下品な価値観。ツッパリ女子こそ弱いものに強く出るし。「絶望」でしかなかった。
おもしろいのは、ツッパリ女子は美人か超絶ブスの両極だった。
不思議なことに、超絶ブスでさえツッパリ文化の中、早めに経験を積み、妊娠して退学していた。特に夏休みの後に、退学する女子がチラホラ出ていた。
私と言えば、恋に恋していた自称「オリーブ少女」。チューすらまだだったのに、妊娠して退学かよぉ〜。ツッパリ女子の早熟なことにも驚かされた。
この校風の中では、特進クラスでツッパリ系ではない私は、ダサい女子だった。私としては雑誌「オリーブ」と「mc Sister」を熟読しているタイプの女子だったので、彼らのファッションと価値観が理解できなかったのだ…。
北関東のやんちゃ文化では、大人世代は八代亜紀、私たちの世代は工藤静香が「理想の女」像だった。
ツッパリ生徒からみると、ダサい私。そして、ストレスで太る私。
特進クラスとはいえ、ツッパリ更生施設のような高校で学力は絶望的だった。何をどこから、どうしたら、この状況を何を改善できるのか、まったく誰にも相談できず、やみくもになってしまった。
ただただ、あわない環境に疲れ果て、家でお菓子をたべてテレビを観て寝てしまった。
テレビの歌番組「ベストテン」では、最近までおニャン子クラブにいたと思ったら、イメージを変えた工藤静香が歌っていた。「ツッパリねぇ」とボヤく。
男に好かれる女を演出する工藤静香より、キョンキョンがクリエイティブな感じがして好きだったけれど(すみません、あの頃の高校生の私の体感なので悪しからず。)。
デブで、ブサイクで、バカで、貧乏育ちで、
男子多めの環境では下手に出るしかなく、確かに見た目も良くなく、ツッパリ文化にも馴染めず女子の友達もできず。この高校生の日々は、「自己否定」と「環境」への憎悪だった。
どこかでは理解していたと思う。私に軽口をたたく中途半場なツッパリ男子やら女子たちは、ルックスも頭も良くないのに私には強く言うことを。
頻繁に見た目(今でいうところのルッキズム)を否定され、からかわれ、学校はおバカな生徒ばかり、文化はツッパリど真ん中。
人とは違う自分を叩き付けられていると大人になる前に、核となる人格が拗らせの泥となってしまった。
デブでブサイクでも→勉強ができればまだいいが→それもダメなら→家がまぁまぁお金があればいいが…。全てがどん底だった(いま振り返るとそこまででもないと思うが)。
自分を守るために変な心理の沼に
そして自分を守るために、下手に出ては、デヘデヘして生きて行くようになり、そして肝心なときに、心のどこかではいつも「私なんて」と思ってしまうようになってしまった。
「私なんて」と思うことが、良くないことだと理解するまで、40代後半になってしまった。
だから10代の自分の精神的な心の骨格ができるまで、女子は人間として生きていける場所を経験することをお勧めしている。
その後の高校生:つづく。