母の一周忌

タイトルヘッダー画像:母の一周忌、反省ばかりの一年 おばさんのボヤキ

あれから一年

昨年2023年10月22日に母が亡くなった。
書類上では翌日に医者の診断があり10月23日となっている。

その日は、母がお世話になっていた特養へ行き、顔をみて東京へもどり帰宅する直前に、母の息が止まったと連絡が入った。

認知症だった5年間

病院へ同行しアルツハイマー型認知症と診断された時は息が止まるような気がした。

実際にはだいぶ前から、ぼんやりしていたのだと思う。家族の中で母は天然ボケを演じていたし、そして中年以降は天然キャラとなっていたので、「そういうもんだろう」と思っていた。

反省は多く

はじめは水頭症ということだった。50代になる兄が両親と同居していたが、父との関係が上手く行っておらず全ては「父が何もしないからダメなんだ」という兄。

車がなければ病院に行くことも大変な北関東、かつタクシーは贅沢だと乗りたがらない父と母。そこには現役世代のケアが必要になっていた。

私は私で、不妊治療と流産を重ねて自分のことで心がはち切れそうな日々。月1回は帰宅するも、掃除と片付けと日用品の買い出し、そして母とお茶に出かけるだけで終わってしまった。

病院へ連れて行くのは兄か父だと信じていた。

人をケアすることに欠ける「長男」として生まれ育った兄と父、さらに関係性が良くないため、母を病院へ連れて行くのはだいぶ後になってからだった。

父だって歳を重ねているため、母のケアはしんどかったと思う。私は動くべきだった。

母の認知症が発覚

母の何かかがぼやはじめていたある日、近所のコンビニから牛乳を5パック買ってきてしまったと父から電話がかかってきた。

仕事中だったため、まだ時間もたっていないこととレシートをもってコンビニに返品するように、父をなだめて電話を終わらせた。

ある日、夜中に「どうしたの?何があったの?!」と母から電話がかかってくることがあった。

母の老人向け携帯電話の1番には私の番号が登録してあったからだ。その後は携帯電話を父が管理し母からの電話はなくなった。

自分の名前を書けない母

そしてその時が来た。

父と母の状態を確認するために実家に帰った時に、母の携帯電話の契約を終了することなり、ドコモショップのカウンターで解約の際に、サインを求められた。

母は自分の名前を書けなくなっていた。自分の名前をだ。

震える手でペンを握り、ぎこちなく名前を書こうとする母の横顔。
「あれ、あ、あ、れ、あぁ」。

私を見つめる母は、平気なふりをするも舌を出してニヤリと笑った。テヘペロ。

私が代理で記入し、また代理人であることを証明する手続きをしたのだと思う。私も動揺してしまって、母に何も優しい言葉をかけることができなかった。私も焦っていたのだと思う。

北島三郎のデビュー曲を口ずさむ

「ちゅっちゅるぅ~♪ ちゅっちゅるぅ~♪」

母は北島三郎が好きだった。同じ時期に東京でがんばった世代だからだと言っていた。
そして私が知る演歌界の大御所は、母にとっては「サブちゃん」だった。

CDなどの家電の使い方も分からず仕事と生活におわれて歳を重ねた母。Youtube(もしかすると違法かもしれないが)で、北島三郎を検索し適当にヒットメドレーを流すと、認知症が進みはじめた母が静かに口ずさみ始めた。

「ちゅっちゅるぅ~♪ ちゅっちゅるぅ~♪」どうやら少しお色気ソングのようだ。

認知症であっても、思い出はすぐによみがえるようだ。笑顔で歌う。
あまりの可愛らしさに抱きしめてしまった。

コロナで逢えない3年

特養とケアマネージャーさんとの連絡は地元にいる兄に。

まじめな兄は、入金や消耗品の納品などは機械的に対応してくれていた。やることはやっているので問題はないだろうという考えは、悪気無く時に実務的な判断をしてしまっていた。

歩いてケガをするから車いすにベルトを着けて座らせる。入れ歯を無くしたら、どうせまた無くすのでもう作らない。メガネも無くされたら困るということで、メガネもしないことを兄はケアマネージャーさんと判断したようだ。

老眼鏡ではなく度近眼のため何も見えない。施設のみなさんとテレビを一緒に楽しめない。入れ歯を付けてくれないから離乳食のようなお食事。

コロナの影響で3年ぶりに逢うと、
何も見えず入れ歯も無い状態だったためか、かなり認知症が進み、ベッドの上で横になり独り言を続けていた。

北島三郎のヒットメドレーをかけ、メガネをかけて私が見えるようにし、手を握り、話しかけた。

私が兄の行動や判断に、気が付くのが遅かったのかもしれない。

私の名前も言えない母

近眼の母に顔を寄せ、「また来るから、楽しみにしててね」と言った時に、笑顔になった。ひいき目かもしれないが、分かるんだと感じた。

あの瞬間は。私だと分かっていたんだと思っている。くしゃくしゃの笑顔で私に笑顔で答えてくれた。

上京してから30年

両親がそばに居ない生活が長い。

離れて生活をしていたからこそ、母がそばに居ないことに慣れている。東京の自宅にもどり、いつもの日常を過ごしてしまう。平日は仕事に追われ、天気を気にしながら洗濯をし、残った野菜で何を作るか頭をめぐる。

「そっか、母はもう居ないんだなぁ」。

実家終いをすることに

母が亡くなって一周忌を迎える前に、家を処分することにだけに動く兄。

そして私は、実家を維持する財力も体力もない自分にまた反省をしている。子なしの私は、孫を見せることも出来ず、まったくだ。
情けなさと葛藤をしながら片付けをつづけた夏だった。

どうすれば良かったのかとずっと振り返る日々。

大きなユリの花を一周忌にお墓に供えた。

住職のお経が響く中、お彼岸に家族で品川のお寺に来た時が思い出される。江戸時代からつづくお墓のことや、先祖のことを得意げに話す父を横目に墓石を掃除する母の姿を思い浮かべる。

こじらせた兄と両親の距離感。そして自分の生活におわれて、そんな兄に年老いていく両親を託していた自分に反省は尽きない。

お母さん、いろいろごめんなさい。

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